meiwagijin.jp - 明和義人祭

Description: 明和義人祭 | 明和義人祭開催!!会場:上古町(古町通1~6番町)/愛宕神社・口之神社

新潟 (2139) 古町 (32) 涌井藤四郎 (2) 明和義人祭 (1) あまの手振り (1)

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1767年~1768年(明和4年~明和5年)にかけ、冷害などの不況に重ねて藩からの重税に苦しんでいた新潟湊の町人たちが藩への異議申し立てを「暴力を認めず話し合い」で進め2ヶ月間、町の政治を自分たちで取り仕切ったと言われる偉人たちの市民運動を明和義人と総称しております。力で解決せず、対話で町の政治を変える。明和の時代、町人が奉行所や藩に意見するなど考えられないことでした。その様子は閉塞感漂う現代においても学びの模範となるものです。その明和騒動の義人として伝えられる「涌井藤四郎」らの顕彰と慰霊を主旨として、新潟市中央区の古町通1番町から6番町までを会場に例年8月下旬に開催されるお祭りです。

江戸時代の半ばである明和4(1767)年、財政悪化に苦しむ長岡藩は、湊を運営する新潟町民に多額の御用金を納めるように命じました。当時、阿賀野川の改修によって船の出入りが減り、不況に苦しんでいた新潟町民は、御用金の半金を納め、残り半金は翌年に支払うことで許しを得ました。

しかし、翌年になっても景気は回復せず、残り半金の支払いが難しくなった新潟町民は、涌井藤四郎らを中心に会合を開き、御用金の支払いを先に延ばしてもらおうとしたのですが、長岡藩はこの集まりをお上に対する反逆的な行動として、藤四郎らを捕まえ、牢に閉じ込めたのです。 この動きに反発した新潟町民は、明和5年9月26日、大勢の人たちが集まって、米を買い占めて町民を苦しめていた豪商や町の有力者の家などを次々と打ち壊しました。奉行所は、この騒ぎを鎮めようとしましたが、結局失敗に終り、やむなく藤四郎らを解放し、その藤四郎たちの手によって打ち壊し騒ぎは鎮められたのです。

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