Description: 上州高崎倉賀野郷、城下町から宿場町へ、その歴史と伝統をご覧ください
神社 (542) 城下町 (50) 宿場町 (10) 倉賀野 (6) 城址 (3) 河岸 (2)
五世紀頃、倉賀野の地には浅間山古墳(せんげんやまこふん)をはじめ、大古墳が築造された。 やがて平安時代になると宮原荘(みやはらのしょう)が置かれ、 鎌倉時代にこの地に落ち着いた武蔵児玉党(むさしこだまとう)の子孫が倉賀野氏を名のる。 南北朝の頃、戦略的に重要な拠点として倉賀野城を築城。 戦国時代には北条、上杉、武田氏の勢力争いに巻き込まれ、天正十八年(1590)に倉賀野城は陥落し廃城となった。 永泉寺には倉賀野城主、金井淡路守(かないあわじのかみ)の墓石がある。また、今も倉賀野城祉が残っている。 江戸時代に入り中山道が整備され、倉賀野宿には本陣一つ、脇本陣が二つ置かれ、 日光例幣使街道と中山道への分岐点が設けられた。 分岐点の間にある”閻魔堂”には、今も当時のままの常夜灯と道しるべがある。 倉賀野を流れる烏川(からすがわ)には、倉賀野河岸(くらがのかし)が整備された。 河岸(かし)とは河川の港のことであり、倉賀野は 烏川の就航点の港町としても発展した。 船は浅い川でも進める高瀬舟が使用され、寛政12年(1800)の記録では小船や艀(はしけ)から大きな江戸廻り船まで約